ミュータントはコバルト爆弾を崇拝するか?

超管理社会としての日本社会は、超監視体制を実現しており、社会全域を監視ショー会場へと変えています。 市民達は超管理社会に従属する見返りに残虐な監視ショーを与えられ楽しんでいるのです。 この666的な文明が科学崇拝や環境破壊の原因でもあります。

「車」と言う苗字は、江戸時代、荒川河川敷に在った皮革•介護•刑吏を生業とする人々の集住地域に多い苗字だった。

映画「男はつらいよ」では、主人公の車寅次郎こと寅さんが、映画冒頭の切り口上で姓名を名乗るのが、毎回のパターンでしたね。

「車」と言う苗字は、映画の舞台である東京区部の埼玉寄り地域、つまり荒川河川敷の低地区域に、江戸の昔から多い苗字でした。

その地域の人々は、皮革産業を営むと同時に、江戸の街で暮らせなくなった病人や高齢者を引き取り、家族から謝礼を受け取りながら介護すると言う仕事にも携わっていました。因みに、当時は病人に限らず、重量の有る運搬は大八車と言う台車を用いていました。

また、その地域には江戸の刑場も在り、そこでの下働きも、その区域の住人の仕事でした。それらが江戸の町のシステムであり、その中の一環としての身分であったのです。

その人々が、いわゆる穢多•非人ですね。当時は、穢多と非人の間にも、身分として区別が有ったそうです。両者とも町中の長屋には住む事を許されず、河川敷地域に集住し、代々世襲で上記の決まった職業に従事していたのですが、新たに住人として加えられる人々もおりました。

例えば、江戸時代は全期間を通じてキリスト教は教派を問わず厳禁だったのですが、江戸時代の中頃以降、キリスト教徒である事が発覚した九州地方の人々は江戸時代初期の様に処刑はされず、信仰を放棄させられた上で江戸に護送され、穢多•非人としての仕事に従事しました。

映画「男はつらいよ」は、映画の舞台背景として、そんな地域の過去歴史も設定しているよと、寅さんの切り口上に託して示していたのですね。シリーズ初めの頃の視聴者には理解出来る事だったのでしょう。

寅さんは、両親を早くに亡くし、妹と一緒にお団子屋さんの夫婦に育てられましたが、養子ではありません。お団子屋さんは浅草寺の門前の商店街にあり、テキ屋の寅さんは、たまにフラッとそこに帰って来ると言う舞台設定でしたね。妹夫婦の家も近隣の土手沿いにありましたね。

男はつらいよ」シリーズは、人気が出て国民的映画となったのですが、シリーズが終わる頃には、視聴者が毎回の切り口上の意味を理解しなくなっていた様です。

しかし、過去の歴史を忘却する事は、歴史を繰り返す事の防止にはならず、却って、繰り返す危険性をUPしてしまうのではないか?と思います。

士農工商は、中国では単なる職業分類の事でしたが、日本では何故か?血縁による身分制度となり、穢多•非人は更に身分制度の外側の、更に下の存在とされました。就いていた職業は、穢れと言うルールの中で、穢多•非人にしか任せられない仕事だったのです。

つまり、日本文化の中に住む日本人社会では、復活する可能性は皆無では無いのです。過去の負の歴史を忘れてはいけないと言う事でしょう。