過去の時代に、日本語に翻訳した外国語に付いて「失敗したんだろうな?」と思う事ってありませんか?
私はありますね。
一つは、既に意味が固まっている単語を、他の意味の単語の訳語として採用した場合です。
漢字は表意文字なので、一文字で意味が定まっており、他の、例えば単語が接頭辞•語幹•接尾辞から成る言語に比べて、字自体の意味がダイレクトでイメージも固まっているんですよね。
ですから、或る漢字を、他の意味の単語の訳語とした場合、後でややこしい事になるのです。
また、もう一つは、他の表現が在るならば、固有の人名に〜istとか、〜erとする表現は、日本語では避けた方が良いと言う事です。
日本文化の文脈ですと、これをやった場合、元々の意味よりも、その個人自体への思い入れ度合いが強く受け取られる様に見受けられます。
人名でないものに〜istとか、〜erを付けた表現でも同じ意味を示す言葉が在れば、そちらを選んだ方が、日本語に翻訳する時には誤解が無いと思うのです。
例えば、日本の学校教育では、世界史の時間に「アタナシウス派」なる教派が登場しますね?
ところが、この名を冠する教派は存在せず、クリスチャンが教理を学ぶ際にも登場しません。これは、ニケア公会議で採択された、ニケア信条に定められた、三位一体の教理の事です。
でも、日本語でその様に訳した場合、多分、日本の人々の脳裏に浮かぶイメージは、その名の人物を崇拝する光景でしかないのですよ。
もう、全然違う話になるワケです。
日本語訳と、外国語文章とを比べた時に、なにか雰囲気が違う様に感じる事って有ると思うのですが、それは言い回しと、単語のイメージが、日本語とは違うからですよね。
それは、仕方のない事だとは思いますが、要らぬ誤解を減らす為には、上記の二つは、敢えてやらない方が良いだろうな?と思うのです。
(※聖書には三位一体と言う単語は登場しないのですが、聖書のストーリーとして、天の父と子なるキリストと聖霊とは、それぞれ別の位格であると同時に一人の主である、そうでないと矛盾を来す、とする教理です。現存するキリスト教会は、正教会、カトリック教会、プロテスタント教会を始め、全ての教派がこれを了解しています。)